【カーネリア】 10巻


第10回 発動

 対岸めがけ、シスターは黒い水煙を引いて飛ぶよう
に駆けていった。たちまち僕は引き離される。
 水門の方から魔法がひらめき、立て続けに空を切り
裂くが、どれもシスターには届かない。水路に沈殿し
た汚物を吹き飛ばし、僕の体に爆風となって襲いかか
ってくる。最後の魔法をひと飛びでかわすと、彼女は
恐ろしい速度でそのまま岸へと踊り込んだ。
 砂袋の壁を飛び越え、彼女は両腕をしならせる。居
並ぶ猟兵たちが地面へと垂直に崩れ落ちる。風車のよ
うに縦横に回転するシスターの腕は、常に刃よりも早
い。彼女の腕は想像もつかない角度からやってきて、
喉を突き、脈を絶ち、去っていく。
 だから僕がようやく石畳を踏んだときには、もう彼
女の他に、そこに立っている人影はなかった。
「その先の梯子を登れば聖堂よ」カーネリアはハンカ
チを忘れた子供みたいに手を振って返り血を飛ばし、
戦いの余韻にきらきら輝く瞳で僕を見た。
「後詰めが来てる。急ぎましょう」
 水を蹴って進む低い足音は、もうはっきりと耳に届
くまで近づいてきていた。猟兵たちの死体を踏み越え
て、僕らは干上がった水路へと向かった。
 濡れた石に手をついて、半ば口を開けた水門の下を
潜る。うなじに水滴が弾けたとき、僕は頭上から響く
音に気づき、動きを止めた。それは魔法を駆動する導
力器の音だった。
「トビー!」白い光が視界に満ちる。シスターの声を
聞いた気がした。どこからか伸びてきた手に、肩を引
っつかまれる。僕の体が後ろへと引きずり出されるの
と、魔法が敷石を炸裂させるのとは、ほとんど同時だ
った。
 轟音に全身を打たれながら、僕は背中から地面に衝
突し、もんどり打って腹ばいになる。汚水にむせなが
ら顔を上げると、もうもうと土煙を吐き出す水門が見
えた。その中からまるで悪夢のように、両手に白刃を
光らせて猟兵たちが湧き出てくる。
 泥の上で僕はもがいた。見る間に傭兵どもの顔は近
くなり、地を蹴って飛びかかってくる。とっさに横へ
転がって太刀を外し、返しの刃をバッグで受けた。音
もなく布が裁ち切られ、古紙の包みが石畳に転げ落ち
る。腰の導力器を探すが、指先には鎖がじゃれつくだ
けだ。
 僕の喉を見つめ、長剣を引き上げる傭兵の男。その
後ろに人影が現れる。シスターだった。彼女の手が無
造作に動き、長剣だけを残して、男は消し飛ぶ。剣の
はずむ甲高い音と共に、シスターは膝をついた。
「ごめんね、トビー」うつむいた彼女の頬を伝って、
赤い筋がいくつも流れ落ちる。
「あんたも、女神に呼ばれるかも知れないわ」
 彼女はまた立ち上がる。ひるがえすコートはずたず
たに裂けている。さっきの魔法だ。僕を逃がすとき、
それを浴びたに違いない。泡立つ真紅の血が、彼女の
胸元から染み出す。僕は地面に転がる《アーティファ
クト》を拾い上げた。濡れた紙を剥がし、冷たい金属
塊を、自分の導力器と重ねて握る。
 もう《猟兵団》の足音はない。彼らは水門への道を
塞ぐように、刀を連ねて立ちふさがっていた。
 シスターが声にならない雄叫びを上げ、僕は導力器
を駆動させる。機構をうならせ魔法を放つ瞬間、頬を
焼けるように熱い刃がかすめていく。たちまち突き飛
ばされ、前のめりに倒れ込む。頭上にシスターの背が
見えた。その右腕が力を失って、肩からぶら下る。彼
女は少し顔を下に向けると、そのまま滑るように、目
の前に崩れ落ちてきた。
 僕はシスターを抱き止め、撃ちかかってきた傭兵を
魔法で吹き飛ばす。だが、それで終わりだ。数え切れ
ない剣尖が、僕らをにらんでいた。導力器を駆動させ
たままの右手を、身を守るように高くかざす。刃が風
を切り、僕は目を閉じた。
 真っ暗なまぶたの裏に、果てしなく白い世界が広が
っていった――