盤双六の滅んだ理由

江戸時代後半に盤双六が廃れてしまった理由について諸説を紹介する。
賭博性が強く幕府からさんざん禁止されたため」という説。

しかし、他のゲームでも禁止令の出たものは数多いし、盤双六の滅んだ江戸時代後半は博打が隆盛を極めた時代であり、施政者の都合による禁止令は有名無実であったので、賭博禁止令で滅んだとする説は納得しがたい。

他に、より面白い賭博ゲームが出現したため」という説。

例えば江戸時代中期には隆盛となったカルタがあるが、盤双六とはゲームの質が違うものであるから、カルタが盤双六の足を引っ張ったとは考えにくい。
また別説として盤双六は次第に賭博と縁が薄くなったためというのがあり、これは後述する「ルールの退行」説を補完するものであり興味深い。

ルールの退行」説 by 草場 純氏

ゲームの盛衰は糾える縄の如く、大きな隆盛があったと思えばあっと言う間に廃れてしまったり、突然復活して爆発的に流行したりと、大きく変化します。もし衰退期に正しいルール(何が正しいかは問題ですが、伝統的なルールという意味です)が忘れられると、そのままゲームが滅びてしまう場合もあります。
逆に、元のルールに新しいルールがとって変わって大きな流行を招くこともあります。前者をルールの退行、又は退化、後者をルールの進化 と呼んでみたいと思います。

ルールの進化は隆盛期にも衰退期にも起こりますが、ルールの退行はえてしてゲームの衰退期に起こり、ゲームを滅ぼしてしまうもののようです。

ルールの進化の例としては、大正期の麻雀、20世紀初頭のオークションブリッジ→コントラクト・ブリッジ、20世紀半ばのダブリングキューブの発明などが挙げられると思います。

ルールの退行の例は、昭和後半の花札が当たるでしょう。

「双六独稽古」によれば、江戸時代の後半は、現在の盤双六のルールとほぼ同じと見られます。この上がりのルールとプライムのルール(マナー?)は、双六をつまらなくしていると私は思います。
では江戸時代前半以前はどのようなルールでプレーされていたのでしょう。例えば、後白河法王が、鴨川の水と僧兵と並び称して双六のサイコロを褒めたたえた(?)頃はどのようなルールだったのでしょう。残念ながらはっきりしたことは分かりません。
しかし傍証はあります。それより少し前の史料で、中国に「譜双」という本があり、双六のバリエーションをいろいろ紹介しています。そのルールを見ると、ベアリングオフがあり、プライムに対する禁則もありません。
以下は想像ですが、平安時代や鎌倉、室町時代の双六は、ぞろ目は倍は動かせなかったし、開始のルールも少し違ったものの、おおむね現在のバックギャモンと同じルールでプレーしていたと考えられます。それが庶民のゲームから上流階級のゲームとなったある衰退期に、上流階級で、上げるまでやらなくていいではないか、プライムを作るなんて失礼ではないか、などとゲームが歪められ、再び庶民に流行し始めたころ、こちらのルールが採用されたのではないかと思われます。
つまらないルールのゲームの末路は哀れです。

もう一つ傍証をあげます。現在の朝鮮には「サンリュク」というゲームが残っています。これがベアリングオフのないバックギャモンに近いルールなのですね。「譜双」によれば、(当時の)朝鮮の双六はベアリングオフがあるのです。

以上、諸説を紹介したが、私は草場さんの説を支持したい。
盤双六がバックギャモンのように、ベアリングオフがあり、ダブリングキューブがあり、ゾロ目があったら滅びることなく生き残っていたと思われます。



なお、草場さんが、宝鏡寺、大聖寺に問い合わせて調査された「現在の」盤双六のルールとバックギャモンのルールの違いを以下にあげる。

1.ダブリングキューブはない。これは今世紀に入って考案されたものなので当然。
2.初手はまず先手を決め、(あるいは囲碁が現在は上手が 白を持つのが慣習であるように、既に決まっていた可能性もある)次に先手がサイコロを2つ振って開始した。このルールでは、初手にゾロ目があり得る。
3.ゾロ目は2回だけ動かす。現行のバックギャモンのルールではゾロ目は4回その目を動かすが、2回だけなので現行のルールより緻密になるがスピード感には欠ける。また上がりの逆転が減る。
4.勝負はインナーに入れ切った時点で終わる。つまりベアリングインはあってもベアリングオフはない。
5.次に若干あいまいだが、「プライムを作るのは失礼である」とされている。これはマナーなのかルールなのかは不明である。
6.ギャモン勝ち、バックギャモン勝ちの代わりに、無地勝ち、無上勝ちがある。これは、ギャモン・バックギャモンにほぼ近いが、4.で見たように勝利条件が違うので、実質的には差がある。また、無地勝ちが2点勝ちなのかどうかは不明。無上勝ちは3点ではないようである。