ゲームというものは、いきなりできあがるものではない。大衆の中でさまざまに遊ばれ、ルールが変革し、自然淘汰的に1個のゲームが成立するものである。また、いったん成立したゲームもその場にとどまっているわけではなく、周囲の他のゲームと相互干渉しながら時代の変遷につれて変遷していく。すなわち、ゲームとはまことに移ろいやすい存在なのである。 葉子戯 さて、麻雀である。麻雀のルーツについては諸先人の研究により次のように考えられている。 中国において古代より遊ばれていた中国カード(紙札)ゲームのうちマーチャオ(馬弔)と呼ばれるカードゲームが、象牙・牛骨製の牌ゲームに変化し、誕生したもので、おおよそ19世紀後半(1860年前後)のこととされる。 このように麻雀の歴史は浅いが、その成立過程における文献は数少ない。僅かな文献の中で最も重要とされるのは清の時代(1616~1912)に著された「清稗類鈔」(徐珂・仲珂、編)である。この中の「紙牌乃博」の項によると、中国カードは唐の時代(618~907)の葉子戯に発祥したそうである。伝承によれば、中国での紙の発明は紀元105年の祭倫によると言われる。しかし祭倫の発明ということは単なる伝承であっても、紙の発明がその頃であったことは確かなようである。紙も発明された当時は貴重品であったであろうが、やがてさまざまな用途に用いられたことは間違いない。そこでカードゲームは唐以前から存在したと推論される。したがって葉子戯はその時代に存在した他種類のカードゲームも含めた総称とも考えられている。現代日本でトランプというと各種ゲームの用具でありトランプゲームの総称である。葉子戯もこのような総称であったと思われる。 また、これらのゲームは紙札でも骨札でも遊ばれたようである。そこで葉子戯もカードゲームに限ったものではないかもしれない。むしろ最近の研究によれば、骨札ゲームのウエートの方が高かった可能性が指摘されている。 さて、中国における遊戯ないし博戯は榛原茂樹氏によると以下の5種に大別される。
馬弔(マーチャオ) 葉子戯から時代が下って明(1368~1662)の時代になると、馬弔がよく遊ばれるようになった。清稗類鈔の馬弔の項には以下のように記述されている。 「馬弔は明の天啓年間(1621~1627)に南方で始まった。清の康煕帝の時代(1661~1722)になると、士太夫が好んで遊んだ。牌の大きさは紙牌よりやや大きく、40枚で1セットで、スート(札の種類)は十萬貫、萬貫、索子、文銭の四種類である。それぞれ1~9まであるが、十萬貫は二十萬貫から始まり、百萬貫、千萬貫、萬々貫までの11枚ある。萬々貫が一番価値がある。萬貫札には人の絵が描いてある。文銭で一番価値があるのは空湯(コンタン)で、次が枝花(チーホワ)である。次に一文(イーウェン)が価値があり、以下、2~9の順である。空湯には人の絵が描いてある。だいたいは水滸伝の登場人物が多い。古くは馬棹脚(マーチャオチャオ)と言ったが、明の時代に脚(チャオ)を角(チャオ)とも訛った。また四門(スーメン)とも言った。これは馬が四本足であるためである。馬は足が1本欠けると走れない。そこで馬棹(マーチャオ)と言ったのである。この棹(チャオ)が弔(チャオ)となり馬弔となった。」 つまり馬弔は以下のように構成されていたことになる。各札は1枚ずつで対札(デュプリケーション)は無いので合計40枚で1セットとなる
しかし、馬弔が明代に始まったとする記述には疑義も呈されている。浅見了氏によれば「南宋の時代(1127~1279)の詩に『打馬賦』という賦がある。『打馬』すなわち『馬弔を打つ』、または馬弔そのものであると思われる。そこでこの時代にはすでに馬弔が存在していた可能性があったのではないか。また同じ清稗類鈔の又麻雀(サーマーチャオ)の項には宋の儒学者、楊大年の著した『馬弔徑』には、『馬弔は宋代に始まった』という記述がある。そこで馬弔は少なくとも宋の時代には存在した可能性がある」と推測している。とはいえここでいう馬弔は、後代における馬弔とは種類/形態が異なるものであったと思われる。 馬弔(銭牌)は現代でも中国をはじめ東南アジアを中心に遊ばれているが、当然ながら中国宋代の馬弔とは札牌の構成その他は異なる。下の写真は現代の中国(特に広東省、香港)で遊ばれている東莞牌(Tung Kwan Pai)である。梅林氏によれば、上からma'n(貫)、sok(紐)、tsi'n(銭、スラングでping・ケーキといわれる)の3スートで、各スートは1~9までと老千、白花、紅花の特殊札1枚からなる。通常はこれらのカードが4枚ずつ合計120枚に、最近は人物を描いた花牌らしきもの4枚が付いているが、この4枚は普通はゲームに使わないそうである。また、1枚ずつの30枚セット、2枚ずつの60枚セットにすることもある。これらの札を使って、カンウー(カンホー)、カップ・タイ・シャプ、チャ・カウ・ツといったゲームを行う。また、通常は天九牌を用いるティウ・ウーというゲームもこの札で行うことがあるという。 東莞牌、梅林勲氏の資料より
これはまさしく現代の天九牌の構成と同じである(PAIGOW参照)清稗類鈔の打天九の項には「骨牌は賽子遊びの変じたもので、三枚で一組である。三枚で賽子の六面と同じになる。後生の人は打天九と呼ぶ。明代の書『葉子譜』によれば『華夷の2チームに分かれてゲームする。いまは32枚であるが、昔はもっと少なかった』」とある。 また清稗類鈔の骨牌之博の項には「骨牌は一寸くらいの大きさで、牛骨、竹、木などで作る。精巧なものでは象牙製もあるので牙牌ともいい、32枚で1セットである。(中略)、66の牌を天牌、11の牌を地牌、44を人牌、13を和牌、36と45を天九、35と26を地八、34と25を人七、14と23を和五、12と24を至尊という。一人あたり8牌配り、大をもって小を撃って遊ぶ。上手な人は小をもって大を制す。(中略)、骨牌の別名を搶結、打四虎、打天九ともいう。打天九の遊び方は馬弔牌とよく似ている」とある。 この骨牌は北方人に特に好まれて遊ばれたという。そのうちに32枚の骨牌のある種の牌が、明代末期に105枚に増えている。デュプリケーション(対札=同種札が増える)により枚数が増える傾向は骨牌に限らず紙札ゲームでも同様であり、この枚数の増えた骨牌、馬弔などの紙牌が清代末の太平天国の乱(1850~1864)の中で融合し、さらに風牌、三元牌も加わって、麻雀が誕生したとされている。 この馬弔その他の紙牌と他の骨牌ゲームなどの融合の課程については次章に述べる予定である。 |