前章で概説した多種ゲームの中から麻雀が生まれたわけであるが、いきなりこんにちの麻雀が成立したわけではない。麻雀に至る過渡期のゲームは幾つも存在していたと思われる。その中の1つ、江西紙牌(シャンシーチーパイ)というゲームが浅見了氏によって紹介されている。 江西紙牌 20世紀はじめの胡適(フーシー)著「盧山遊記」によれば、この牌は福建牌、徽州牌と同じく馬弔から出たもので構成は以下のようである。
現代の江西紙牌、梅林勲氏の資料より その構成はほとんど変わっていない。公将の老千は千万、白花は信記、紅花は毛公と書かれている。九索と八銭のみに赤い色がついている。 この江西紙牌と馬弔から浅見了氏は以下のようにまとめている。
麻雀 しかし、この江西紙牌、また福建牌や徴州牌の段階では風牌はもとより確固たる三元牌も存在していないので、まだ麻雀とは呼べない。 さらに麻雀はカードゲームではなく骨牌ゲームである。骨牌が紙牌ゲームと融合したのは諸資料から1865年前後、きっかけは太平天国の乱(1851~1864)ではないかと考えられている。戦乱の中で兵士の楽しみの一つは博打である。兵士の出身地が中国全土に渡っているのであらゆるタイプの紙牌、骨牌が遊ばれたと思われる。しかしルールが地方毎にばらばらではうまく遊べないので、おおよその共通札・ルールが成立してくるのは必然である。これが麻雀誕生の最大の要因であると言われている。 「清稗類鈔・又麻雀(サーマーチャオ)」に『麻雀は江蘇省の寧波(ニンポー)に始まり順次普及した』とある。浅見了氏によれば麻雀の発祥地は寧波そのものではないとしてもいわゆる中支であったことに異論の余地はないとのことである。なお、太平天国軍の首都が江蘇省の南京であったことも偶然の符合とは思われない。 麻雀の必要条件 麻雀が馬弔や骨牌ではなく麻雀と呼ばれるための必要条件を浅見了氏は以下のように規定している。
花牌また風牌の成立 数千年の中国ゲーム史上まったく未見の風牌が、なぜこの時代になって生まれたのか、浅見了氏は以下のように推測している。 麻雀は前述したように太平天国の乱という戦争のさなかに生まれたものである。博打=葉子戯が中国全土から集合してきた兵士の間で行われるには共通ルールが必要であり、共通の札が用いられたと考えられる。また明日をも知れぬ兵士の境遇で遊ばれる博打は刹那主義、とめどのないインフレ化である。そのインフレ化にもっとも効果があり対応できたのは花牌であった。そのためこの当時、数多くの花牌が登場している。 再度「清稗類鈔・又麻雀」を引用すると『(麻雀は太平天国軍の)軍中で酒宴のときによく賭博された。だんだん枚数が増え、筒化・索化・萬化・天化・王化・東化・南化・西化・北化などの花牌ができた。これは(太平天国軍の)封号である」とある。ちなみに牌名のあとに付く「化」は「花」の意味であろう。また「天王・東王・南王・西王・北王」などの牌が存在したとの資料もある。 「又麻雀」にあるごとく天王、東王などは太平天国軍の封号(王号)である。この軍の幹部はみな王号を潜称していたので何種類にもおよぶ花牌が用いられた。すなわち、天地人・晩涼(以上公将)、春夏秋冬・梅蘭菊竹/大閙天宮・唐僧取経/江村斜影・楼外青山/棋僧待月・雨日風雪/官人猫鼠・晴耕雨読/漁樵耕読・画書棋琴/嫦娥奔月・天女散華/東王南王西王北王・公侯相将/山間名月・江上清風(以上門将)などの一聯八種の牌が伝えられている。 多くの花牌を使用したため、中には枚数が150枚を越える麻雀セットもあったようである。これら数多くの花牌も多すぎるために次第に淘汰され、現在では春夏秋冬などわずかな花牌が残るのみである。昔は遊ばれた花牌も現代麻雀ではほとんど使用されない(清麻雀ではセットにも入っていない)が、東王・南王・西王・北王の花牌は風位牌として姿を変えて清麻雀においても重要な地位を占めている。これは門将(メンチャン)と方位、風位の思想が一致したためであろう。 東王・南王などの花牌はすべて門将、すなわちある座位の者だけに有効であった(例えば東王・春・官は荘家のみ、南王・夏・人は荘家の下家のみに有効)。この特定の座位の者だけに有効という花牌の性質が、それまで成り行きで車座になっていた人々に「東王が有効なゲーム者=東家」などの発想となり、今日の東南西北という座位概念が成立し、ついに風位牌・方位牌として麻雀セットの中に存在するようになった。 なお、風位が東南西北の順で呼称されることについて、浅見了氏は「中国では、方位は一般に東南西北と呼称される。これは中国では方位にも位階があるからである。東は太陽の昇る方角で第一位、南は東の次に暖かい方角で第二位、西は太陽の沈む方角で第三位、北は一番寒い方角なので第四位となる。そこで風位は東北西南でも西北東南でもなく、東南西北と呼称される。そして麻雀の親順もその風位順に従い、東南西北で移動するようになった。また古代中国では人が左方向に移動するのは左遷として格下げを意味した。そこで親の移動には左遷を嫌い、右方向に移動したと思われる。プレーヤーは車座になっているから、親が右方向に移動すれば結果的に左回りとなる。この左回りに親が移動する状況でゲームしているところへ風牌が誕生した。そこでそれまでの習慣どおり東南西北を左回りに当てはめた。すると麻雀の方位は、結果的に現実と逆回りになってしまった」と推論している。 ところで、花牌の起源について異論がある。江橋崇教授によれば、現代中国で発行されている教則本の類に書かれた花牌の起源は次のようなものという。 麻雀の成立した初期の時代に勝負のスピードアップと刺激の増進をねらって「聴用」と二文字書かれた牌二枚と「財神」の姿を描いた牌二枚が加えられた。聴用牌は麻雀牌34種のいずれとしても使ってよいジョーカー牌である。一方、財神牌は槓のように横に出して別の牌と交換することで符が増えるボーナス牌である。その後、花牌の数を増して聴用牌四枚、財神牌四枚(文財神二枚、武財神二枚)とするようになった。次に聴用牌、財神牌の双方に変化が生じた。聴用牌は「听用」牌または「百塔」牌と呼ばれるようになる。ジョーカーとしての性質は同じである。財神牌には春夏秋冬の文字が付くようになり、自分の季節の牌を持ってくれば一翻と四符増えることになった。風牌三枚と同じ機能である。このようにして花牌は流行過熱して聴用牌も財神牌も八枚ずつ使うようになり、やがて聴用牌と財神牌の両方の機能を兼ね備えた牌が登場した。これが「絵牌」である。絵牌も四枚からすぐ八枚に増加し、聴用牌、財神牌とあわせて花牌の合計が24枚となった。元の麻雀牌136枚に足して160枚もの牌を用いる麻雀が登場したわけである。しかし花牌の絶頂期は長くは続かなかった。これだけ多くなると聴牌は簡単で待ちも多くなりすぎて勝負の面白さが減じる。そこで花牌が整理淘汰される方向に向かった。花牌のうち絵牌は廃止され、聴用牌は四枚、財神牌も四枚に減少した。花牌の粛正をおこなったのが江蘇省寧波の陳魚門であるといわれている。陳魚門は花牌を使わない136枚の麻雀を「素麻雀」と称した。日本で言う清麻雀である。こうして現代中国および日本で衰退した花牌であるが東南アジアではなお遊ばれているのが現状である。 三元牌 三元牌は麻雀以前の葉子戯にも見られる。しかし馬弔の文子における枝花、空湯のように各スートに付属した形であって独立したものではなかった。これが江西紙牌になると前述したように公将(枝花、千万、全無)が独立しており、麻雀の中=枝花、発=千万、白=全無と対比されている。 三元の意味について、浅見了氏は、3つで1セットという発想はキリスト教の三位一体はいうに及ばず、ありふれた発想である。麻雀の三元もそれになぞらえて作られたという諸説を紹介している。すなわち大三元は中国の国家試験(三元中選)に由来するという説がもっとも有力とのことである。 しかし、これとは別の説の書かれた文献(1923年香港で発行)が稲福繁氏により紹介されている。 初期の麻雀で三元牌は「龍、鳳、白」であった。これらがそれぞれ「発、中、白」に変化したのは中国が中華民国になってからで、清王朝のシンボルであった「龍」を使用することに反対し中国が発展するようにと「龍」に「発」をあて、「鳳」も「中」に変じたということである。 |