麻雀史余話


麻雀好きの皇后
「清稗類鈔・孝欽皇后好雀戯」の項に以下の記述がある。
「孝欽皇后は麻雀をおおいに好み、諸王や宮廷官僚を集めて毎日遊んでいた。慶王は二人の公主(諸王の娘)をいつもそばに置いておいた。宮廷官僚とゲームするときは、必ずその公主が宮廷官僚の後ろに立ち、彼らの手を皇后に通じた。孝欽皇后の配牌には必ず中発白の対子があった。皇后があがると、官僚たちは皇后の前に進み出て慶賀の辞を述べた。すべてのゲームが終わったとき、皇后が勝ち越していればそのまま終了した。しかし官僚が少しでも勝ち越していた場合、叩頭して(床に頭を打ち付けて)陳謝し、勝ち金をすべて返した。官僚の負けが大きくなると、司道という官僚(財務大臣)に申し出た。司道は負け金を十倍にして返した。牌は象牙製で幅一寸、長さ二寸ほどであった。作りは精緻で鬼神が作ったと疑わせるほどであった。」
この孝欽皇后は清朝第九代皇帝、咸豊帝(文宗 1831~1861)の皇后であり、孝欽は諡号(贈り名)で存命中は西太后と称されていた。

この逸話がいつ頃のことか定かではないが、西太后が栄華を極めた時代とすれば 1870年(五十歳)以降と思われ、麻雀が成立し普及していった時代と一致する。
逸話で興味をひくのは、イカサマがすでに存在している。皇后の配牌に必ずあったという中発白の対子は宮廷官僚が必死で積み込んだものであろう。また彼らの後ろに立った公主が皇后に通している。これは彼らの聴牌を通したものと思われ、官僚同士のイカサマを防止するものである。見られているため、官僚たちはわざとあがらないなどの選択はできず、あがれば皇后にも支払い義務が生じる(当時の麻雀はロンあがり、自模あがりに関係なく三人払い)から、さぞ辛い麻雀であったろうと想像できる。しかし、負けても十倍返しであるからフォローはされている。(笑)
さて、西太后の使用した牌であるが、これは豪華なものであった。この牌はその後、清の滅亡などの混乱の中で行方不明となったが、一つの興味深いエピソードが残っている。

清朝末期、中国ではさまざまな軍閥が台頭した。その中でも有力な一つが張作霖の率いる北方軍閥であった。これは満州進出を図る日本の関東軍にとっては抵抗勢力なので、日本の特務機関により常に動静が探られていた。そんな中、陸軍歩兵隊・園田茂三大尉が張作霖宛に搬送されている荷物を臨検した際の参謀本部への報告書がある。
「張作霖へ持参せる箱、早速密偵せるに錠ありてなかなか開かず。本官は直ちに硫酸にて錠を焼きて開きたるに、古風にして如何にも支那趣味に飾られたる文箱の如きもの表れ出でたり。されば爆弾或いは毒瓦斯の類かと用心しつつ開きたるに、色々の文字を印せる小さき駒を見いだしたり。函の表には麻雀とあり、庭に来る雀の意とも存じられず、竹に雀と云ふことあれど、眞に妙なる雀なり。東中發北等の文字あり。花の咲き乱れたる紋のつきたる管を並べたるあり。細査せるに、上は象牙、その象牙の面にはルビー、サフワイア、ダイヤモンドなどを散りばめてあり。例せば「中」の字はルビー、東西南北はサフワイア、また白き面の中心にはダイヤモンド一個嵌めたるものありき。紋章など絢爛比なきものなり。
本官はそれ以外に異常を認めず、されば麻雀なる箱を元の位置に戻し置きて帰り来たれり。その後、本官は、いささか支那に通ぜる友人に出會ひし折り訴問せるに、そは五千金と呼称せらるる最高価の世界唯一の麻雀とのことなりき。」

この牌が西太后使用牌であるかどうか明確ではない。しかしこれほどの牌がいくつも制作されたとも考えにくいので、十分その可能性がある。 この後、張作霖は乗っていた列車を爆破されて死亡し(これは関東軍の謀略と云われている)、この麻雀牌も完全に行方不明となった。

1索の紋様
fish1 馬弔はこれまでに概説したように麻雀のルーツの一つであり、万子・筒子・索子に対応するスートがある。索子は貨幣を通した紐のデフォルメであり、古い馬弔では1索も他の索子と同じように銭束一つの図柄が描かれている。麻雀成立後、これがさまざまにデフォルメされているうちに、中支(上海、蘇州あたり)系統の1索は鳥の図柄に変化していった。
なぜ中支方面で1索が鳥の図柄に変化したかという点については判然としていないが、一つには鳥になる前のデフォルメである青扶(チンフー)のデザインが、多少はヒヨコに似ていたこと。また中支方面では鳥が好まれていたことも原因ではないかと推測されている。すなわち、北京(北支)で刊行された「清稗類鈔・又麻雀」には、「呉(中支)の人は、なぜか鳥を好む」という記述がある。それに対し、北支の人の好みは魚であった。そのため、北支の馬弔では、索子はすべて魚になっており、1索もまた魚一匹のデザインであった。
これらのことから、中支では鳥デザインが定着し、その特徴的なデザインからの連想と、馬弔(マーチャオ)と麻雀(マーチャオ=中国では普通の雀(すずめ)の意味)の発音が似ているので、名称も馬弔から麻雀に変化したのではないかと推測されている。
この紙札牌である麻雀が最初に竹骨化されたのは中支においてであった。紙札をそのまま竹骨化したのであるから竹骨牌の1索も、そのまま鳥が用いられ、現在に至っている。
麻雀牌の主産地は中支(上海、蘇州あたり)であるから鳥デザインの1索が主流であるとしても、北支では魚デザインの牌が製造されなかったのであろうか。この疑問の答えが近年解明された。
fish2 その幻の魚1索牌はアメリカのニューヨークで発見されたのである。
20世紀初頭にアメリカでは麻雀が一大ブームとなった。そのため麻雀牌の需要が増え、中国各地から大量の麻雀牌が輸入された。それでも足りず、鯨・マンモス等のアメリカ製骨牌まで製造されたほどである。その中国から大量輸入された牌の中に魚デザインの麻雀牌が発見されたもので、これは現在、千葉県にある麻雀博物館に収納されている。
<写真は麻雀博物館会報第1号(01/01/2001)より転載>


鹿鳴館の麻雀
日本に麻雀が伝来したのは大正中期(1920年頃)というのが定説である。しかし、それより30年以上も前に伝来し、明治時代の鹿鳴館で麻雀が遊ばれていた可能性を示す資料が発見された。以下に麻雀博物館会報2号(07/2001)から引用する。
vanity fair
「鹿鳴館」で麻雀が打たれていたという記事は、雑誌「VANITY FAIR」(1923年11月)の103ページに載っている。そのページは、麻雀牌の1ページ広告で、北京や武漢などのいろいろな麻雀牌セットがあるとして、以下次のように書かれている。
「そして、キップリングが30年前、マンダレイへの旅の途中で初めて知ったゲーム、東京鹿鳴館で使用されていたセットの複製品など」もあると。

鹿鳴館は明治16年(1883)に完成し、明治政府の欧化主義の表舞台として明治23年(1890)までの7年間、鹿鳴館時代を現出した。また、キップリングとは「ジャングルブック」の著者として有名なイギリスの作家であり、VANITY FAIR 1923年の約30年前、1890年前後に二度来日している。さらに、鹿鳴館時代(1883-1890)は中国で麻雀が誕生して20年以上経過していた頃であるから、鹿鳴館で麻雀が遊ばれたとしても物理的に不可能ではない。そういう点では、このVANITY FAIRの広告記事は信憑性がありそうに思われる。

しかしこれだけで、「キップリングは鹿鳴館で麻雀した」とか、「麻雀は明治時代に伝来していた」としてしまうのは、いささか短絡的に過ぎる。VANITY FAIRには「(当時の有名人)キップリングがマンダレイへの旅の途中で知ったゲーム(=麻雀)」とあるだけで、「鹿鳴館で麻雀した」とは一言も書いてはいない。麻雀博物館も会報で「鋭意、探索を続けたい」としている。今後の展開を見守りたい。

<写真は麻雀博物館会報第2号(07/01/2001)より転載>


[以上、本稿の多くを浅見了氏の論考からお借りした]


戻る