バックギャモンの歴史

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はじめに
 バックギャモンは簡単に言えば双六(すごろく)である。サイコロを振って出た目だけコマを移動させ、相手より先にゴールすれば勝つゲームだ。しかし、単純な双六ではないことは、古来多くの人を虜にし、今でも世界中で大勢の人が楽しんでいることをみれば分かる。
 このページではバックギャモンの魅力と戦略の奥の深さを紹介する。ページを作るにあたっては、日本バックギャモン協会編「バックギャモン・ブック」を中心に遊技史学会発行「遊技史研究」、INAXギャラリー発行「ゲームのデザイン」、ニフティサーブのゲームフォーラムに英理庵氏(QFG01227)が連載された「バックギャモン講座」など、多数の書を参考にさせていただいた。
 またプロブレム集ではおなじくゲームフォーラムに連載されている井原文孝さんの「BGエキスパートマッチ紹介」および「バックギャモンを楽しむ会」を主催されている林さんの著『強くなるバックギャモン』シリーズから多くの問題をお借りしている。お二人に深謝の意を表します。

バックギャモンの歴史
セネト  バックギャモンの歴史は古い。増川宏一によれば、5000年以上前、古代エジプトで遊ばれたセネトという競争ゲームが起源とされる。セネトは現在でも遊ばれているそうだが、10個のマス目が3列に並んだ盤上遊戯である。セネトより以前、人類史初期の遊戯盤では敵味方の駒の進むコースが別々であったが、セネトは敵味方の駒が進む共通のマス目があり、互いのコマが進行途中で妨害しあうようになっている。これによりゲームとしての面白さが著しく向上した。この共通のマス目部分は時代と共に増えて、次第に複雑に進化していく。
 セネトはエジプト時代後、ローマの隆盛に伴い広い地域に伝えられた。エジプト時代のコマは10個ずつを最初から盤上に置いていたが、ローマ時代には15個ずつのコマを最初は盤外に置いて、サイコロの目によって盤上に乗せたと推定されている。その後5世紀には中段が無くなり、12のマス目が2列に並んだ遊戯盤になった。コマは2列のマス目をU字型に進み、相手のコマを追い落としたり、相手のコマ2個が入っているマス目には進めないなどのルールによって、進行しながら戦う今日のバックギャモンの原型が形作られた。これが中央アジアから7世紀には中国に伝えられ、同時に日本に伝来して双六となった。正倉院にはこの頃伝えられた聖武天皇愛用の双六盤が所蔵されている。

盤双六  こうして日本に伝わったバックギャモンは盤双六と呼ばれ、飛鳥時代から江戸時代まで大流行した。源氏物語にも幾つか盤双六の描写がある。「簾高くおしはりて、五節の君とて、されたる若人のあると、双六をぞ打ち給ふ」(常夏)等々。この他「枕草子」「蜻蛉日記」「今昔物語」「徒然草」など多数の書に盤双六の記述が見られる。
 なお双六の読みについて、上原作和(物語学の森)によれば、古くは「すくろく」と言い、「すごろく」はその転訛とされる。和名類聚抄には「俗に須久呂久と呼ぶ」とあり、また平安朝の枕草子にはスグロクと訓まれている。室町初期の通俗漢字辞書『下学集』ではスコロクと訓んでいる。したがってスクロクの訓がスコロクに転じたのは中世南北朝以降のことかと推察している。
 時代が下って江戸時代には囲碁、将棋の遊戯盤と合わせて三面と呼ばれた。名古屋市の徳川美術館には婚礼調度品の盤双六が所蔵されている。しかし、江戸時代半ば頃より盤双六は衰退しはじめ、ついには滅んでしまう。ちなみに江戸時代後半の柳亭記で、柳亭種彦が「廃れし遊びは双六なり。予をさなき頃も双六打つ者百人に一人なりき。されど折葉を知らざる童なかりしが、近年はそれも又廃れたり。」と書いている。(折葉または下り端は双六を簡略化したゲーム)
 なお、1000年以上も遊ばれていた盤双六が江戸時代後半になって滅んだ理由については諸説あるが、私は草場純さんの「ルールの退行」説を支持したい。
 こうして日本では滅んでしまったこのゲームは、欧米でバックギャモンとして生き残り、後に述べるダブリングキューブの発明で、より面白いゲームとなり、今日では全世界で愛されている。


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